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更新日付:2020年10月27日 / ページ番号:C009823

浦和博物館 展示Web解説 2

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浦和宿絵図画像


浦和宿絵図 [さいたま市指定有形文化財(歴史資料)]
(うらわしゅくえず)

 文化8年(1811年)に作成された、浦和宿全域及び岸村のうち調神社境内と月山寺領を描いた絵図です。
 縦5.21m、横3.41mの和紙張り合わせの上に、中山道を中央に配して、土地利用や道路、水路などが分かるように色をかえて表現されています。そして、1軒ごとの屋敷地や田畑の区画、本陣や玉蔵院、調神社などの建造物が描かれています。
 裏面には別紙が添付されており、それにこの絵図の作成の趣意と211人の連判があり、文化8年(1811年)4月に作成されたことが分かります。
 
 

少年と鳩画像

少年と鳩(寺内萬治郎画)
(しょうねんとはと(てらうちまんじろうが))
 
 この作品は、昭和30年(1955年)第11回日展に出品された作品です。緑の木立を背景に、白い手すりにもたれながら、大切そうに鳩を胸に抱く少年の姿が印象に残るのではないでしょうか。モデルの少年は当時高校1年生だった作者寺内萬治郎の息子さんで、鳩は彼が飼っていた伝書鳩だそうです。「楽しんで描いた絵の一つ」と画家自身が『埼玉文化月報』(昭和31年1月)で語っています。

・寺内萬治郎  明治23年(1890年)~昭和39年(1964年)  大阪市生まれ
 東京美術学校(現東京藝術大学)で西洋画を学び、卒業後は人物画を中心に数多くの作品を手掛ける。
 昭和9年(1934年)東京都田端より当時の浦和市針ヶ谷に新築した自宅兼アトリエに移り住む。
 東京美術学校、東京教育大学などで後進の指導にあたるほか、地域の芸術振興にも力を尽しました。
 日本藝術院会員 日展理事 埼玉県美術家協会会長(初代) 光風会会員

・「鎌倉文士に浦和絵描き」という言葉が聞かれる時代がありました。
 大正12年(1923年)の関東大震災を機に、東京から芸術家が浦和地区に移り住んだためともいわれています。多くの芸術家が浦和地区に住むようになったのは、震災の大きな被害が少なかったこと、上野の美術学校への便の良さ、省線電車の開通、師範学校や旧制の高校・中学等の集中、雑木林や田畑・池沼等の自然環境などもその一因となっていることでしょう。この絵の作者寺内萬治郎もそんな「浦和画家」の一人です。そのほか順不同で浦和にゆかりの芸術(美術)家を敬称略で例に挙げれば、福原霞外、倉田白羊、内藤四郎、増田三男、林倭柄、須田剋太、高田誠、渡辺武夫などでしょう。

見沼通船堀模型画像

見沼通船堀閘門模型
(みぬまつうせんぼりこうもんもけい)

・見沼通船堀東縁一の関の10分の1の模型です。
 見沼通船堀には閘門が合計4か所ありましたが、その構造や寸法はほぼ同じでした。底面及び側面などが木製の構造物で、代用水側は朝顔の花のように大きく開いた形をしています。ほぼ中央に角材の柱が鳥居のように設けられており、その柱の代用水(上流)側に水をせき止めるための角落板(関板)を10枚ほど水圧により密着させて取り付けるようになっています。

 

   

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教育委員会事務局/生涯学習部/博物館/浦和博物館 
電話番号:048-874-3960 ファックス:048-874-3960

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